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子供の都合悪いことスルー力は見習いたい (NM)

パプアニューギニア研修旅行その1

  • 最初に

2006年の10月12日から23日までパプアニューギニアへ行った際の記録です.文中にいくつか政治的な内容や発言,及び当方の一方的な解釈もしくは批判が入っています.しかしながら,以下の文章は当方の所属する組織や機関の主張や見解ではなく,あくまでも当方の責任であることを明記します.さらに,10日間程度の滞在での総括であるため,文中に誤解や間違いが存在する可能性があります.

  • 10月12日木曜(写真はエアーニュギニ、ブリスベン空港)


前日は8時前に就寝するも眠れず,それでもって3時半起き,研究室に来てメールチェックしてから,中国人同僚氏と共に5時に呼んでおいたタクシーにてメルボルン空港国内線ターミナルへ.メルボルンブリスベンの間はEチケットなので,手続きする必要があるのだが,よくわからん(豪州人も多数迷っていた),ヘルプデスクの女性に手伝ってもらって,メルボルンからブリスベンを経由してポートもレスビーまでのチケットを手配してもらう(荷物もポートモレスビーまで送ってもらう:ブリスベンポートモレスビー間は正確にはエアーニューギニの運行なのだが,カンタスコードシェアなのでメルボルンでの発券が可能),
7時過ぎのフライトで9時過ぎにはブリスベンに着き,国内線ターミナルから国際センターミナルへ電車移動,豪州を出国し,パプアニューギニア行きの飛行機を待つ.その間に,ロンリープラネットの旅行ガイド「パプアニューギニアソロモン諸島ジョニーウォーカー赤2本を買う.
11時はブリスベンを離陸し,一路北へ,窓側に座った同僚が寒そうだったので,エアーニューギニのCAさんに毛布をくださいとお願いして,持ってくると言われて,いくらたっても持ってきてくれない時点で,「今回の旅はトラブル多いだろうなあ」と思った(実際この予想は的中する).
14時前に無事にパプアニューギニアの首都であるポートモレスビーの空港に着陸,さっそく入国審査,我々は前もってビザを取っていたため,ビザ有の窓口に並ぶが,同じ飛行機に乗っていた乗客もかなりの人数がビザを事前に取得していたようだった.しばし待って無事入国,ターンテーブルから荷物を無事回収した.空港の両替所にて2万円ほど両替しておく,円安かキナ高か,あまりもらえず.ホテル送迎のバンに送ってもらい,今晩の宿のラマナホテル(Lamana hotel)へ向かう.実はこのホテルの予約は同僚氏にお願いしていたのだが,同僚は予約OKなのだが,僕自身の予約はないという,最初のトラブル? 
老いて,かつ旅行経験を各所で積んできた結果,すっかりふてぶてしくなった僕にはこんなのはトラブルではないし,むしろトラブルがあった方が楽しいのである.フロントが満室で予約なしでは宿泊できないって言うので,それじゃ別のホテル紹介してよと交渉していたのだが,なぜかけっ結局,ラマナホテルに泊まれることに(1泊9000円以上したけど)なった.中国人同僚氏は今回は3週間滞在なのだが,今後のフィールドワーク(某所に1年くらい滞在して文法記述をする)のため,ビザのアプリケーションを現地のお役人さんに渡す(これも結構手間取ったけど省略).そのお役人さんがラマナホテルのクラブに現れるってことなので,今夜はどうしてもこの高いラマナホテルに泊まって,彼に会う必要があったのだ.夕食はクラブハウスサンドイッチをルームサービスで取って食べる.明日に備えて早めに寝る.

  • 10月13日金曜(写真はマダンの町、コーストウォッチャーズ通り)


5時半起き,同僚氏と共に7時過ぎにはチェックアウト,昨日の予約といい,チェックアウト時の待たされ感といい,いかにも南国である.ホテルのサービスが良ければ,帰国前もここに泊まる予定だったが,やーめた.7時半前,ホテルのバンにて国内線ターミナルへ送迎してもらう.僕の便は11時だけど,同僚氏は9時の便なので,結構ぎりぎり.そういうわけで,セキュリティチェックの前で同僚氏と分かれ,国内線の建物内で待つ.しかし,何もないので,8時にセキュリティチェックを受け,窓口の人々が並ぶスペースに入る.しかしながら,11時発のマダン行きの手続きはできそうもないので,9時過ぎまでぼけーっと待つ.ようやく朝の行列がひと段落した時点でマダン行きのチケットの手続きをして,かばんを預け,チケットをもらう.そうして再びセキュリティチェックを受け,9時半頃には国内線待合室でロンリープラネットを読みながら待つ.
ポートモレスビーの空港は日本の援助で建設されたのか,ところどころに無意味に日本語の表示がある.ただし,空港自体はかなり前の建設のようで,日本で言うと昔の伊丹空港みたいな雰囲気である.11時前になり飛行機に搭乗,中国人のグループ客がいる,あと僕の隣席はマレーシア人だかタイ人だかのビジネスマンみたい.他はパプアニューギニア人っぽかった.飛行機ではビスケットとオレンジジュースをもらい,12時過ぎには今回の目的地であるマダン(Madang)に到着した.一方,中国人同僚氏は別のとある場所へ飛んだ(場所については豪州の研究機関の研究上の守秘義務に抵触するため,書けません,ごめんんさい.)
マダン空港は小さい,機内預け荷物もベルトコンベアではなく,そのまま受け取る.そして送迎の車で町へ入る.事前にネットで「コーストウォッチャーズホテル」(Coastwathcer's hotel)を予約していたのでそちらへ行く.この頃はまだパプアニューギニア人特有の英語発音に追随出来ていなく,フロントのお姉ちゃんに「英語かトクピシン,どっちかできないの?」って言われる.ちぇ.このホテルも結構割高,ウィークエンドレートで通常より安いにも関わらず,9000円以上する.一応,3泊予約したけど,こんな状況じゃどんどんお金がなくなるので,ここには1日しか滞在しないことに決定.
暑くてじめじめしているので,半袖に着替えて外出,ANZ銀行で50ユーロと300豪州ドルを両替,この銀行へ行くとき,たまたま,マダンリゾートホテルで働く従業員の人(Jさん)に遭遇し,案内してもらう(ネットでマダンの旅行記を検索すると,マダンへ来る人は大抵このマダンリゾートと言う高級ホテルに宿泊している,そしてこのホテルにはマダンでは有名な日本人の女性の方が働いていらっしゃるのだ,今回はちょうど日本へ里帰りと宣伝のために一時帰国中と言うことで会えなかった)
銀行で両替が完了し,当座の現金を得たので,お腹がへった,適当なビュフェで鶏肉の煮込みとライスの昼食,そしてコーラ.再び散歩し,(とはいえ,まわりは肌の黒い人ばかりで目立ちまくっています).ホテル方面へ戻る.コーストウォーッチャーズの灯台のところで,うだうだしていたら,2人の現地人に声をかけられる.適当にやり過ごし,ホテルに戻るとなんと停電中で,クーラーが使えない,それでもしばし昼寝し,その後,メルボルンのボスに連絡を取るように言われたエージェントに電話し,話す.なんでも多忙なので空いて出来ないけど,とにもかくにも明日の朝会って村へ連れて言ってくれるとのこと.しかし,村に滞在するには水や食料を買っておきなさいとのことで,スーパーへ買いだしへ向かう.
さきほど,灯台前にいたひとり(Wさんとしよう)が付いてきて,手伝ってやるとのこと.スーパーの場所もわからないし,好意に甘えることにする(後にこのWとは再会するのだが,良い人なのか悪い人なのかわからなかった,ただ,英語が達者で,かつ向こうからまずおみやげ物の木の彫り物を買えと言って来て,家族持ちにも関わらず一人マダンの町へ出てきてフラフラしているみたいで,親切ではあったけれども僕の勘では信用できないと思った,この件については後日の項で書く).
スーパーで水やビスケットを購入し,2,3日はなんとか暮らせる食料をWさんに手伝ってもらってホテルに持って帰る.帰りにWさんの口利きでビールを内密に売っている所へ連れて行ってもらい,ビールを3本購入(この辺りも詳細不明,Wの言い草では不正規にビールやその他の物資をどこからか調達し,アルバイトに励んでいる人がマダンに多いとのことだけど,それはやはり違法であり,さらにはその購入もどこで買っても良い訳ではなく,同種のワントク関連(ワントクについては後にふれる)で買うみたいである).ただし,違法であるからには不正規に旅行者がビールを買うところを警官に見つかれば問題になるわけで,そういう場所に僕を連れて行ったWはどうなのかなあと考えたのだ.
夜はロンリープラネットの紹介でおすすめである「マダンクラブ」というレストランへ行くも,中国人(華僑?)によって買収され,単なる中華料理レストランと化していた.せっかくパプアニューギニアに来たのに,中華料理とは,トホホ.
街灯も少なく,疲れ気味で暑くてじめじめしているためか,帰り道で間違った道を歩いてしまう,外は暑いので結構な人数の現地人がうろうろしているのだが,いきなり2人の男が現れ,ホテルまで送ってあげようと言う,運の悪いことにその時,ほぼ全財産とパスポートを持っていたため,もし彼らが強盗と化したら,一気に窮地に立つところであった.幸い2人は親切にもホテルまで送ってくれた,最後にお礼を言って握手をして分かれたが,思えば軽率な行動であったと思う.部屋でビールを飲んで就寝.

  • 14日土曜日(写真は僕が1週間お世話になった村、ブッシュの中ということですが、ちょっと奥まで行くとジャングルです)


6時半起き,すぐにシャワーしパッキングして7時45分にチェックアウト,エージェントであるCさんの家へ向かうため,町の中心に向けて歩くが,道を聞いた人に間違って案内され遠回りする,いろいろな人に道を聞いて,最後は銀行マンのSさんがそのCさん自身の知り合いってことで家まで送ってもらう.
Cさんはベルギー人で子供たちとはフランス語で話している.マダンの大学で歴史を教えているそうな.10時前にCさん及び子供,さらに途中でアメリカ人やフランス人をひろって町の南へ向かうも,途中で車がパンク,ピーンチ!
こういう場合,窃盗団とかが現れるのがお約束かと思い気や,さにあらず,近くに住んでいる現地人がパンク修理を手伝ってくれたのだ.パンクしたタイヤを交換し,再び走り,途中から未舗装の道へ入り,揺られて小さな村へ到着.
Cさん及び一向はそこから歩いてブッシュ歩きをし,鍾乳洞の洞窟を探検するそうな,僕はその村に滞在できるよう,Cさんから頼んでもらう(このとき,Cさんの車内でロンリープラネットを紛失).村のリーダーLに案内され,彼のいとこであるNさんちに滞在することに話がまとまる.さいわい,2人とも英語が出来,コミュニケーションは大丈夫である.Nさんが最近建てたと言う,椰子の木や竹で出来た家(小屋)に滞在することになった.当初は週末だけの滞在予定だったのだが,なんだかんだで7日間ここに泊まることになったのである(後にこの手の村滞在(Village accomodation)については詳しく書きますが,アポなしで泊めてくださいと言う「田舎に泊まろう」スタイルは通常駄目で,あらかじめ観光局なりどこかで予約してから泊まりに行くのが通常の用である).
お昼ご飯に,さっそくヤムイモのフライをいただく,ちょっぴり苦味があるけど,おいしい.この村は電気,水道,ガスがないため,調理は薪と火で行い,水は近くの川からくんできて,夜はケロシンランプや懐中電灯で過ごすのである.さっそく午後に川へ水浴びしに行く,とは言え,ブッシュというかジャングルの中を10から15分かけて行くのである.これはとんでもないところに来てしまった.
夜はコーンビーフとお米,6時半過ぎには真っ暗になり,ランプの中うだうだ紅茶を飲みながら歓談,8時前には小屋に戻り,考えことをしたりしながらいつのまにか就寝.

ここが1週間暮らした小屋、日中は風通しが良くて涼しいのですが、夜はめちゃくちゃ寒くなります。